店へ向かう道中、ぼくの頭に浮かんできたこと。サケルドン・ミハイロヴィッチ氏のところへ寄って、すべてを話してはいけないだろうか。一緒のほうが、どうしたらいいか、はやく思いつくかもしれない。けれどそんな考えはすぐに打ちけした。ぼく一人でやらなければならないことが、いくつかある。目撃者抜きで。
 燻製サラミが店になかったので、小さなソーセージを半キロ買った。煙草もなかった。店からぼくは菓子パン屋に向かった。
 菓子パン屋には大勢の人がいて、レジに長い行列が出来ていた。ぼくはすぐに眉をぐっとひそめたが、行列には並んだ。行列はひどくゆっくりと進み、それからぴたりととまってしまった。レジのところでなにか騒動が起こったからだ。
 何も気がつかない振りをしながら、ぼくは前に並んでいる、若いご婦人の背中を眺めた。若いご婦人は、とても好奇心が強いようだった。レジで起こっていることが少しでもよく見えるようにと、右へ左へ首を伸ばし、ひっきりなしに行列をとめた。しまいに彼女はぼくの方をふり向いて、たずねた。
「あそこで何が起こっているのかしら、知りません?」
「すみません、知りません」

 ぼくはできるだけドライに言った。
 ご婦人は色々な方向に身をよじり、しまいにまたぼくに話しかけてきた。
「あそこで何が起こっているのか、ちょっと行って、解明してくださることってできません?」
「すみません、ぼく全然興味ないんで」
もっとドライにぼくは言った。
「興味がない?」 
 ご婦人は叫び声を上げた。 

「あなただって、あれのおかげでずっと行列に縛りつけられているんでしょ!」
 ぼくは何も答えず、ただ軽く背を丸めてみせた。するとご婦人は注意深くぼくを眺めた。
「こんなのはもちろん、男性の仕事じゃありませんわね。パンのために行列に並ぶなんて」と彼女は言った。「こんな風に立ちっぱなしなんて、お気の毒。きっと、お独りでいらっしゃるのね?」
「ええ、独身です」すこしドギマギしてぼくは答えたが、惰性でドライな口調の返答は続けていたし、やはり軽く身を屈めてもいた。
 ご婦人はもう一度、頭からつま先までぼくをじっくり眺め、突然、指先でぼくの袖口に手を触れて、こう言った。
「どうでしょう、私があなたの必要なものを買いますから、あなたはおもてで待っていらしたら」
 ぼくはすっかり取り乱してしまった。
「ありがとうございます」とぼくはいった。「それはすごくありがたいお申し出ですけど、でも、本当に、ぼく自分でできますから」
「いいえ、いいえ。おもてへいらして下さい。何を買おうとなさってました?」ご婦人は言った。
「あのですね。黒パンを半キロ買おうとしてたんですけど、ただ、鋳型でつくってあるやつ、あの安いやつを。あれが一番好きなんです」
「そう、わかりました」ご婦人は言った。「それじゃ、行ってくださいな。私が買いますから、お勘定はあとということで。」
 そして彼女はひじで軽くぼくを押し出しさえした。
 パン屋を出て、ドアのところに立った。春の陽がまっすぐぼくの顔を照らす。ぼくはパイプをふかした。なんと可愛いご婦人だろう!こういうのは最近滅多にいない。突っ立って、太陽に目を細め、パイプをふかしながら、可愛いご婦人の事を考える。なんといっても、彼女はきれいな茶色の目をしている。ただもう魅力的というほかはない、彼女の素晴らしさ!
「あなたはパイプをお吸いになるの?」すぐ横で声がした。可愛いご婦人がパンを差し出している。
「ああ、お礼のしようもありません」パンを受け取りながら、ぼくは言う。
「パイプを吸っていらっしゃるのね!そういうの、ぞくぞくするほど好きだわ」と可愛いご婦人は言う。
 そしてぼくらの間に、次のような会話が生まれた。

彼女 つまり、あなたはご自分でパンを買いにいらしてるの?
ぼく パンだけじゃありませんよ。ぼくは自分のものは全部自分で買うんです。
彼女 それじゃ、お食事はどちらで?
ぼく 普通に自分で炊事をします。時々は居酒屋で食べたりもしますけど。
彼女 ビールがお好きなんですか?
ぼく いや、ぼくはウォッカのほうが好きです。
彼女 私もウォッカが好き。
ぼく ウォッカが好きですって?それはいい!いつか、一緒に一杯やりたいものですね。
彼女 私もあなたとウォッカで一杯やりたいな。
ぼく すみません、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが?
彼女 (真っ赤になって)もちろん、お聞きください。
ぼく いいでしょう、お尋ねします。あなたは神を信じますか?
彼女 (驚いて)神を?ええ、もちろん。
ぼく どうでしょう、これからウォッカを買って、ぼくのところへ来るというのは?ぼくすぐ近くに住んでいるんです。
彼女 (意気込んで)まあもちろんですわ、賛成!
ぼく それじゃあ行きましょう。
 店に立ち寄り、ぼくは半リットルのウォッカを買った。これでもう金はない、小銭がいくらか残っているだけだ。森羅万象について、彼女とひっきりなしにおしゃべりしているうちに、突然、うちの部屋の床に、死んだ老婆が横たわっていることを思い出した。
 ぼくは新しい知り合いをじっと見た。彼女は商品棚のところに立って、果物の砂糖煮の瓶を調べている。ひっそりとドアの方へ足を忍ばせて、ぼくは店の外へ出た。ちょうど、店の正面に、市電がとまった。市電の番号を見もしないで、その市電に飛び乗る。ミハイロフスキー通りで降り、サケルドン・ミハイロヴィッチ氏のところへ向かう。ぼくの手にはウォッカのボトルと、ソーセージと、パンがある。
 ドアを開けてくれたのは、サケルドン・ミハイロヴィッチ氏自身だった。彼は裸の身体にガウンをひっかけ、脛のところをちょん切ってある長靴をはいて、耳あてのついた毛皮の帽子をかぶっていた。しかしその耳あては上げてあり、頭頂部にリボンで結びあわせてあった。
「これはこれは」ぼくを見ながら、サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。
「お仕事を邪魔したんじゃありませんか? 」ぼくはたずねた。
「いや、いや」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はいった。「何にもしちゃいませんでした。ただ床に座っていただけなので」
「ご覧ください」ぼくはサケルドン・ミハイロヴィッチ氏に言った。「ウォッカと前菜を持ってきましたよ。もし差し支えなければ、ひとつ飲もうじゃありませんか。」
「いいですなあ。おあがりください」
 彼の部屋に通された。ぼくはウォッカボトルの栓を抜き、サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はおちょこ2杯と肉の煮込みの皿を、テーブルのうえに置いた。
「ちょうどソーセージも持ってるんです。これはレアで食べるのがいいかな、それとも茹でましょうか?」
 「ひとつ茹でてみましょう」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。「そして茹でている間、肉の煮込みでウォッカをやろうじゃありませんか。これはスープから出してきた、とびきりの肉の煮込みなんですよ!」
 サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は石油ストーブに鍋を置き、ぼくらは座ってウォッカを飲んだ。
「ウォッカを飲むのは健康にいい」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はおちょこをいっぱいにしながら話した。「メチニコフはね、ウォッカはパンより健康的で、パンは、これは我々の胃のなかで腐るワラに過ぎないって書いてますよ」
「あなたの健康に乾杯!」ぼくはサケルドン・ミハイロヴィッチ氏とカチンと杯を打ちあわせていった。
 飲み干したあと、ぼくらは冷肉をかじった。
「美味ですな」とサケルドン・ミハイロヴィッチ氏が言った。
 けれどその瞬間、部屋のなかで何かが急にピシッと音をたてたのである。
「なんでしょう?」ぼくは言った。
 ぼくらは口をつぐんですわり、耳をすませた。突然再びピシリという音。サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は椅子からとびあがり、窓のほうへ走りよると、カーテンをむしりとった。
「何をするんですか?」ぼくは叫んだ。
 けれどサケルドン・ミハイロヴィッチ氏は、返事もせずに石油ストーブへ突進すると、カーテンで鍋をつかんで、床に置いた。
「こん畜生!」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。「鍋に水を入れるのを忘れたんだが、エナメル製の鍋だもんだから、エナメルがすっかりはげちまいましたよ」
「なるほど」ぼくは頭を振りながら言った。
 ぼくらは再びテーブルについた。

「鍋はどうでもいいがね、しかし、ソーセージはレアで食わなくちゃなりませんな」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。
「ぼくは腹がペコペコですよ」ぼくは言った。
「お食べなさい」サケルドン・ミハイロヴィッチはソーセージを僕のほうへ押しやりながら言った。
「なにしろ昨日、あなたと地下でご一緒したのが最後で、それきりなにも食べていないもんで」とぼくは言う。
「はい、はい、はい」サケルドン・ミハイロヴィッチは答えた。
「四六時中書いていたんでね」ぼくは言った。
「こん畜生!」サケルドン・ミハイロヴィッチは大仰に飛び上がってみせた。「目の前に天才がいるとは愉快だな」
「まだまだですって!」ぼくは言う。
「おそらく、書きまくったわけでしょうな?」サケルドン・ミハイロヴィッチがたずねた。
「ええ」とぼく、「紙がなくなるほどにね」
「我らが日々の天才に乾杯」サケルドン・ミハイロヴィッチはおちょこを持ち上げながら言った。
 ぼくらは飲み干した。サケルドン・ミハイロヴィッチはゆでた肉を食べ、ぼくはソーセージを食べた。四本のソーセージを平らげると、ぼくはパイプをくゆらせ言った。
「実はですね、ぼくは追跡を逃れて、あなたのところへ来たんです。」
「誰があなたを追跡しているんです?」サケルドン・ミハイロヴィッチが聞いた。
「ご婦人ですがね」とぼくは言った。
 しかしサケルドン・ミハイロヴィッチが何も聞いてくれず、ただおちょこにウォッカを注いでいるものだから、ぼくは続けた。
「彼女とは菓子パン屋で知り合ったんですが、ぼくはすぐに惚れてしまいましたよ。」
「いい女?」サケルドン・ミハイロヴィッチは聞いた。
「ええ」とぼくは言う、「ぼく好みですね。」
 乾杯してから、先を続けた。
「彼女、うちにウォッカを飲みにきてもいいと言ったんです。それで食料品屋に寄ったんですが、でもその店から、ぼくはこっそり逃げ出す羽目になりまして。」
「金が足りなかった?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は聞いた。
「いや、金はギリギリあったんですが、彼女を部屋に通すわけにはいかないことを思い出したんです。」
「なんでしょう、ほかのご婦人がお宅にいたとか?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は聞いた。
「ええ、まあね、ぼくの部屋には他のご婦人がいましたよ。」にっこり笑ってぼくは言った。「今じゃ、自分の部屋なのに誰も通せやしない。」
「結婚なさい。そして私をお昼ご飯に招待してくださいよ。」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。
「いや」笑いで鼻息を荒くしながらぼくは、「このご婦人とは結婚しませんよ」と言った。
「ほう、それなら、パン屋のほうのご婦人と結婚することですな」とサケルドン・ミハイロヴィッチは言った。
「何だってぼくを結婚させようとするんです?」ぼくは言う。
「当たり前でしょう?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言って、おちょこを一杯にした。「あなたのご成功に!」
 ぼくらは飲み干した。ウォッカがぼくらのうえに効き目をあらわし始めたようだった。サケルドン・ミハイロヴィッチは耳あてつきの毛皮帽を脱いで、ベッドの上に投げた。ぼくは立ち上がり、もういくらか頭がグラグラしているのを感じながら、部屋のなかを歩き回った。
「死人にたいして、あなたはどういう態度をお持ちですか?」ぼくはサケルドン・ミハイロヴィッチに聞いた。
「完全に否定的ですね」とサケルドン・ミハイロヴィッチ氏、「怖いですよ。」
「ええ、ぼくもやはり、死人には我慢が出来ません。」とぼくはいう。「死人に出くわしたら、それが親戚ででもないかぎり、ぼくはね、きっと足でそいつを蹴っ飛ばしてやるでしょうね。」
「死者を鞭打っちゃいかんですよ」サケルドン・ミハイロヴィッチは言った。
「やつらの鼻面にまっすぐ長靴をぶちこんでやる」とぼくは言う、「死人と子供には我慢が出来ませんから。」
「ああ、子供は不快だね」サケルドン・ミハイロヴィッチは賛成した。

「じゃあどうですか、死人と子供だったら、あなたのご意見では、どちらが悪いですか?」ぼくは尋ねた。
「悪いのは、そりゃあ、子供ですよ、もっとずっと邪魔になるからねえ。死人はいずれにせよ、我々の生活にわり込んできたりしないでしょう」サケルドン・ミハイロヴィッチは言った。
「わり込んできますよ!」ぼくは叫んで、ようやく黙った。
 サケルドン・ミハイロヴィッチは注意深くぼくを眺めた。
「もう一杯どうです?」彼は尋ねた。
「いいや」とぼくは言ったが、はっと気がついて、つけ加えた。「いいや、どうもありがとうございます、これ以上は結構です。」
 近寄って、再び席に座る。しばらくの間、ぼくらは黙った。
「お聞きしたいことがあるのです」ぼくは遂に言う。「あなたは神を信じていますか?」
 サケルドン・ミハイロヴィッチの額に横ジワが現れ、彼は言った。
「無作法な行為というものがありますな。もし、人がポケットに200ルーブル入れるのをほんのすこし前に見ていたとして、その上で彼に50ルーブルの借金を申し込むとしたら、それは無作法です。金をあなたにやるかやらないかは彼次第だが、一番便利で気持ちの良い断り方は、金がないと嘘をつくことですからね。ところがあなたはこの人が金を持っているのを目撃している、そのためにこの人から、簡単に気持ちよく断れる可能性を奪ってしまったわけだ。選択の権利を奪うなんてのは、非道でしょう。それは無作法で、無神経な行為ですよ。そして、人に、『あなたは神を信じていますか?』なんて聞くのは、やはり無神経で、無作法な行為です。」 
「しかし」とぼくは言った。「それとこれには何の共通点もないじゃありませんか。」
「私は比較してるわけじゃありませんから。」サケルドン・ミハイロヴィッチは言った。
「まあ、いいでしょう」ぼくは言った。「それは置いておきましょう。無作法で無神経な質問をしてしまって、すみませんでした。」
「どういたしまして。私はただ、答えるのをお断りしただけなんですよ。」とサケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。
「ぼくでも答えなかったでしょうね。まあ、ただ理由は別ですが」とぼくは言う。
「どんな理由?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はぼんやりと尋ねた。
「いいですか」ぼくは言った。「ぼくが思うに、信仰のある人も、信仰のない人もいないのです。いるのはただ、信じたいと願っている人と、信じたくないと願っている人です。」
「つまり、信じたくないと願っている人たちは、もうすでに何かを信じてしまっているのだと?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。「一方、信じたいと願っている人たちは、その時点ですでにもう、何にも信じちゃいないってことですか?」
「もしかしたら、そうかもしれません」ぼくは言った。「わかりません。」
「信じる、信じないというのは、何をですか?神ですか?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は尋ねた。
「いいえ」とぼくは言った。「不死です。」
「それならどうして私に、神を信じるかどうかなんて聞いたんです?」
「まあそれは単に、『あなたは不死を信じますか?』なんて聞くのは、幾分バカみたいだからですよ」ぼくはサケルドン・ミハイロヴィッチ氏にそういって、立ち上がった。
「おや何ですか、お帰りですか?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はぼくに尋ねた。
「はい。」ぼくは言った。「そろそろ。」
「でもウォッカはどうします?」サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。「ちょうどおちょこに一杯づつ残っているじゃありませんか。」
「ほう、それなら飲んじまいましょう」とぼくは言った。
 ぼくらはウォッカを飲み干し、ゆでた肉の残りをつまんだ。
「さて、では行かなくては」ぼくは言った。
「さよなら」台所を通って、ぼくを階段のほうへ送り出しながらサケルドン・ミハイロヴィッチ氏は言った。「どうもご馳走様でした。」
「こちらこそありがとうございました」ぼくは言う、「さようなら。」
 そしてぼくは出ていった。
 一人になって、サケルドン・ミハイロヴィッチ氏はテーブルを片付け、戸棚に空っぽのウォッカの瓶を放り投げ、耳あてつきの毛皮帽を再び頭にかぶると、窓の下の床に座った。サケルドン・ミハイロヴィッチ氏の両腕は背中の後ろに組まれ、見えなかった。まくれあがったガウンの下からは、脛のところをちょん切ってあるロシア長靴をはいた、骨ばった裸の足が飛び出していた。



(続く)









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小説 老婆 2